私は長年別居を続けている夫婦の一人である
正確に言うと
まだ一度も同じ場所に
住民票登録をして
住んでいないのに
夫婦なのである
それを他人がどう言おうか
あまり関係がないと
私は考えている
しかし厄介なことに
特に日本の人たちから
理解を得るのは
難しい
一緒に住まないと、と
まるでそれが命令かのような
話し方をしてくる人もいる
そしてそういう人に出会う度に
私は苦笑してしまうのだ
夫婦で決めたことを
どうして第三者に
とやかく言われないといけないのだろうか、と
反論をするという方法もあるが
私は正直
面倒くさくなって
いつかそういう日が
そのうち来ますと
さらりと答えて
流すことにしている
しかし内心は
うんざりしてしまっているのが
本当のところである
ああ、またかと
そういうコメントを聞く度に
ゲンナリしてしまうのである
だから、ではないけれど
ASAMIさんの決断を
私は、とてもよく理解できる
先日ASAMIさんのBlogで
彼女の新しい家族のカタチについて
私の決断と私たちの新たな夫婦の形で
綴られていたが
大事なことは
一緒に住むことではない
二人の間の
愛のカタチであり
家族としての絆である
生きている毎日を
分かち合う方法は
共に住むだけではない
喜びや悲しみを
分かち合う方法は
一緒に住むことが条件ではない
その二人に見合った
暮らし方
生き方
愛し合い方がある
何も一緒に住むことだけが
相手を思いやることとは限らない
いざという時に
もちろん
頼りにしたい人でもあるし
これからの人生
一度くらいは
どこかの国で
共に住みたいとは思っている
愛のカタチと
家族のカタチが
これまでの常識に
囚われる必要もなくなったと
私は考えている
相手を思う気持ち
想う気持ち
それが正しいのであれば
二人の意見が合意を得らえるのであれば
家族のカタチも
多様であっていいはずだ
夫婦は一緒に住まなければならない
子どもと両親は一緒に住まなければならない
それが日本人の考える家族のカタチ
でも世界はそうではない人もたくさんいる
海外転勤を繰り返しながら
お互いを尊重する夫婦
共に住めなくても
毎週末を国を超えて暮らす夫婦
子どもはその夢のために
全寮制の学校にいる家族
国籍の違う養子を育てる親
本当に
様々な家族のカタチが
存在するのである
日本では養子や里親の制度も
まだまだ閉鎖的である
私を含めた日本人たちの価値観が
いかに古いものかを
体感できたのは
やはり外の世界で
様々な人々と出会ってきたから
なのだと思う
家族や夫婦のカタチで
共に住むことだけが
選択肢なのだとしたら
これ以上
その関係が発達することもないだろう
私たち人類は
それを超えた形を
考える時が来たのかもしれないと
今回のCOVIDの出来事を通じて
そのことを
学んでいるのではないかとすら
私には思えるのだ
愛のカタチと
家族のカタチが
皆同じであるとは
限らないことを
考えることで
この世界の新しい生き方が
見えてくるかもしれない
愛のカタチと
家族のカタチ
生き方や働き方だけに
多様性を求めるのではなく
こうしたものにも
多様性を認めなければ
本当の意味での
世の中の改革には
ならないと思うのである
愛のカタチ
家族のカタチ
どちらも
夫婦や家族の数だけ
存在するのだと
私は思う
La Carrière -Mariko